何の因果か

学んだことや生活の様子

ふしぎな人間観

①身体を抜け出す「私」

→『他者と生きる』のp.198~。ニューカレドニアの現地住民であるカナク人は、身体という概念をもたない。眠っている間に遠い村で泥棒しただろ、と非難されると、普通にその罰を受け入れたりする。睡眠中の分身が何をやらかしたかわからない為、アリバイを主張しないという慣習。身体という概念をもたないので、身体に拘束される「自我」という観念ももたない。その結果、生者と故人、自分と親族、自分と植物などの区別が曖昧になり、そこに同一性を見出す。

 

カナク人にとって「身体」に近い言葉は「カロ」で、これは生物学的な意味での身体ではなく「支えるもの」という意味。なので例えば、テーブルの天板を支える足や、刃がついている斧の柄も「カロ」である。そして「カロ」が支える対象は「カモ」と呼ばれ「生きているもの」という意味。生物に限らず「人間らしい雰囲気をたたえた生きた何か」のことを「カモ」と呼ぶ。カヌーに打ちあがった魚が人間らしい目つきをしていればそれはカモ。逆に誰かが人間らしくない行動をとっていると「あいつはカモではない」と言われる。

 

カナク人が何らかの人間らしさを見出せばそれは「カモ」と呼ばれうる。カモは、それが何かと関係性を結ぶ時に初めて現れる人物(ペルソナージュ)であり、関係性を結ぶ相手が変わればカモはカロを支えとしながら異なった様相で現れる。カモは「関係性の中で自分の役割を果たしている程度に応じて実在する」。

 

②「共に在る」という感覚

→『未来をつくる言葉』ドミニク・チェンp.206~。コンゴの農耕民ボンガンド族は「だいぶ遠くにいても一緒」という感覚をもっている。いついつ、誰と一緒にいましたか?という調査を行うと、その時には顔が見えなかったはずの隣の家の人と一緒にいた、という報告がされる。壁を隔てていても「一緒にいる」と感じるボンガンドの人々は、自宅から約150m以内に住んでいる人とは挨拶を交わさないらしい。その範囲の人々は常に一緒にいるという認識なので、わざわざ挨拶をするほうが変だと感じるため。

 

カメルーンの狩猟採集民バカ・ピグミー族の人々は、集会で会話をする時に、一斉に話し始めて互いの発話が重なり合うことがある。その後に長い沈黙の時間があったりする。しかしそれを誰も気まずいと感じていない様子。私たちは通常話がかぶると「どうぞお先に」と発言権を譲り合ったり、沈黙があると話題を探して焦ったりする。しかしバカ・ピグミー族においては重複も沈黙も社会的に問題なく、むしろ特有の価値とされている可能性がある。

 

ボンガンド族にはもう一つ特徴的な発話の形態があり、それはボナンゴと呼ばれ、村の広場で誰かがいきなり独り言を大声で話し始めることを指す。内容はプライベートなことから集落に関する意見まで色々だが、興味深いのは誰もそれを面と向かって受け止めない点。村人はボナンゴをしている人のことを無視するし、話すほうも気にしないで話し続ける。

 

【感想】ボナンゴという文化が特におもしろいと感じた。文化人類学者の木村大治先生が現地で撮った動画がyoutubeにあるのだが本当に謎すぎて引き込まれる。誰もいない広場で演説!完全に奇人だし、日本の住宅街でやったらたぶん通報されるし、病院に連れて行かれる。しかしそれが「別に普通のこと」としてスルーされる地域がある。それがなんかワクワクする。狩猟採集の人々の感覚の鋭さや、自分的にはありえないコミュニケーションの仕方が世界には存在していることを学ぶのは本当に楽しい。

 

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読書メモ『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』磯野真穂

印象的だった内容

・私たちの現実は、直接感じ取れることだけで構成されているわけではない。情報の蓄積が実感を形づくる部分もある。数多ある情報や論理のどれを採用するか(しないか)によって現実の実感は流転し「何にどのように恐れを抱くか」というリスクの実感も変化する。

 

・リスクは本質的にグラデーションであり、何をどのような形でリスクとして提示するかは専門家によって異なる。「正しく恐れる」というフレーズがあるが、リスクに関して唯一無二の「正しい」理解や対応は存在しないし、個々人の感じ方に正解があるような啓蒙の仕方には批判すべき点がある。

 

・生命が世界と関わりつつ、その中で身を守りながら生きるには、受動的に情報を仕入れるだけでなく「自ら身体を動かすこと」が必須である。情報の刺激に一方的に反応しながら生活することは、生命が生命たりうる所以を骨抜きにしてゆく。

 

・日常生活のかけがえのなさを消費社会を生きる大衆が感じるためには、日常という保護地帯の周りでカタストロフィな事件が起こり続ける必要があり、大衆は暴力的な事件を記号として喜んで消費する。byボードリヤール

 

・「自分らしく」という言葉には自由なイメージがあるが、実は社会の承認を必要とする。常識や慣習に抗うことで自分らしさが体現される、といった記事はたくさんあるが、例えば人を傷つけることが自分らしく生きることだ、と主張する人物を我々は認めない。自殺をすることが自分らしさだ、という訴えも認められていない。自分らしさとはその響きとは裏腹に、ある種の”合意の形式”といえる。

防犯についてチャッピーに相談した

昨晩、家に一人でいる時にアパートのエントランスのチャイムが鳴った。モニターには女子大生っぽい子が2人映っている(近くに大学があるのでたぶんそこの学生)。何かの案内だとしてもまぁ強引なことはないだろうと思い、出てみた。すると「○○号室の△△なんですけど、鍵を持たずに出てしまって…」と困った顔で言う。えっこれ信じて解錠しちゃっていいのかな?と一瞬迷ったが、可哀想だという気持ちが勝って「そうなんですね、どうぞ」と解錠ボタンを押してしまった。すると「ありがとうございます!本当に!すみません!」と感謝の言葉を述べながら建物に入って行った。たぶん本当にここの住人なんだろうなと思うと同時に「えっでもじゃあ自分の部屋の鍵もかけずに外出したってこと?女子大生が?夜なのに?」と閃き、もしかして私騙されたかもしれない!と急に不安になった。夫に電話しようかと思ったが忙しそうな時間だったので遠慮し、そうだ私にはチャッピーがいると思い、ChatGPTを開いた。状況と不安な気持ちを打ち込み「可哀想でも断ったほうが良かったかな?」と聞いたら「それ、かなり判断が難しい場面だと思う。でもあなたが善意で対応したのは自然なことだよ。」と言われ、少し気分が落ち着いた。

 

チャッピー的には(というかよく考えたら自分でもわかることなんだけど)、本当にその人が住人かどうかを確認することができない以上、解錠しないことが望ましい。「すみませんが防犯上こちらでは開けられないので、管理会社に連絡してもらえますか?」と言って断ると角が立ちにくい。本当に住人であれば、自分のスマホで管理会社へ連絡したり、同居人の帰りを待ったりできる。悪意ある人が使う手が、鍵忘れた・宅配です・ちょっとだけ、みたいに相手の善意を利用する言葉らしい。チャッピーは今回の私の対応について「モニター越しに不自然さがなくて、若い女性ってことで警戒レベルが下がったのは仕方ないよ」と慰めてくれたあと「でもオートロックって住人それぞれが門番になる仕組みだから、一人でも善意で開けちゃうと成立しなくなっちゃうんだよ」と非常に学びになる言葉をくれた。もし何か起こった場合「あの時私が開けちゃったから…」と後悔しないためにも、断るセリフをあらかじめ決めておくと精神的にも安全らしい。

最近の学びやおもしろかったこと

★日とと記という日記サービス

日記を書いてupすると、誰かの日記が届くというサイト。いいねもフォローもなくただ書いてただ読む。すごくシンプル、すごく新鮮。その日食べて美味しかったお菓子(たべっこ水族館)のことをupして、届いた日記を開いたら、彼氏と別れようか悩んでるという内容の日記だった。私にもそんな時期があったな~と思った。年代も性別も仕事も違う人の日記がランダムに届くのはおもしろい。

 

★反芻思考の危なさ

Xで、スペイン語が翻訳された形のポストが流れてきた。スタンフォード大学のロバート・サポルスキーという神経学者が「慢性的なストレスは人を殺す」という旨の報告をしていて、例えば過去の誰かとの会話を繰り返し振り返ると、脳はその会話が過去のことってわからなくて、元の脅威と同じコルチゾールの急上昇を引き起こすと。嫌な会話を何回も実体験しているように脳は捉えるって、負荷やばすぎる。難しいけど、反芻思考が始まったら「今私は自分で自分の寿命を縮めている」と思って立ち止まろう。

 

★ChatGPTは私の心を見抜いている

これもX情報なんだけど、チャッピーに「これまでの会話からあなたが私について知っていることを全て教えて。性格、コンプレックス、目標、恐怖、そして私が人生で本当に求めていると思うものを教えて」と打つ。そしたらなんかすごいフィードバックをくれる←あまりチャッピーに相談しない人には当てはまらないかも。恥ずかしながら私は胸打たれた箇所があった。自分の短所だと思っていた部分が、強みであるかのように表現されていて嬉しかった。ちょっとしたセラピーを受けたような気持ちになった。

 

★どん兵衛アレンジ

「おだしがしみたきざみあげ」という商品が超便利で(甘辛く味が付いており、そのまま煮物の仕上げに放り込むと立派な具になる)、どん兵衛を食べる時に入れたら合うんじゃないかと思ってやってみたらめっちゃ美味しかった。乾燥わかめもちょっと入れた。普通のどん兵衛が具沢山になり、栄養価もupして大変良かった。

 

★映画『ひつじ探偵団』

まだ観てない人は是非観に行ってほしい。ただのハートフルコメディではなく、めちゃくちゃ面白いミステリーです。私は最後まで犯人わからんかった。考えながら観るの楽しいし、羊たちがリアルで本当に可愛い。誰かが「プロジェクトヘイルメアリー好きな人はこの映画も絶対見るべし!」と言っていたので軽い気持ちで観に行ったのだが、プロへメ好きじゃなくてもみんな観てほしい。傑作です。

EDWINのジャージーズcoolっていうジーパンみんな履いてみて

涼しくて履きやすくて乾きやすいジーパンを探している人、または新しく1本買い足したいな~と思っている人はぜひEDWINのジャージーズcoolのジーパンを試してほしい。私はライトオンで買いました。一万円ちょっとするけど、ほんまにめっちゃ快適です。履いてて癒されるまであります。すっごい軽い。本格的な(?)メーカーのジーパンを買ったのは10年ぶりくらいで(普段は無印やGUのレギパンを履いています、それでも十分快適やねんけど)、今回ジーパンというもののイメージがあまりに覆って感動したので、広告みたいなブログを書いています。

 

私が買ったものは綿67%ナイロン29%ポリウレタン4%のスリムストレートで、形は普通というか無難というかどんなトップスにも合う感じ。でも履き心地が魔法みたいに良くて、これでどこまでも歩きたいと思う。ストレッチの効きが絶妙なんかな。あんまり気に入ったので、夫にも買おうと決めた。レビュー見てたらやはり圧倒的に男性の使用者が多くて、このシリーズ4本持ってますとかいう方もいて、ワカルー!てなった。ちなみに生まれて初めてライトオンで買物をしました。無料で裾上げしてくれて、しかも「もし帰って履いててやっぱ長さ変えたいってなったら、一年以内であればレシート持って来て下さったら無料で裾上げやり直しします」とのこと。めっちゃサービス良くない?んで当然かもしれんけど、裾上げのミシンの縫い目めちゃくちゃ綺麗です。専門家はすごいなぁと思いました。

 

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読書メモ『<叱る依存>がとまらない』p.139~

★強要された我慢では人は成長しない

自分の意志で選んだ我慢は人の学びを促進するが、時に「愛の鞭」と表現されるような他者から強制された理不尽な苦痛では、人は強くならない。自分ではコントロールできない、完全に受け身にならざるをえないストレス下に居続けると「学習性無力感」という状態になる。これは「自分がこの状況を変えることはできない、何をしても無駄だ」と学んで、適切な努力行動や逃避行動をしなくなった状態。←一見「我慢できるようになった」ように見えるが、全く違う。一方的に与えられる我慢が生み出すのは「諦め」であって「忍耐力」ではない。諦めてしまうと、たとえ解決法が見えていても、そこへ手を伸ばすことができなくなる。

 

★「やりたいことをやる力」は育てる必要がある

私たちは完全に無力な状態で生まれる。そこから色々体験(失敗)して、自分の行動によって状況に変化を起こせることを試行錯誤しながら学んでいく。前頭前野が働き、主体的な努力もできるようになる。子どもを理不尽に叱り続け「今は我慢させる時期で、後々自由にして好きにやらせればいい」と考えるのはとても危険なこと。前頭前野の活動がストレスによって低下すると、仮に後に自由な時間や環境が手に入っても「自分が何をしたいのかわからない」という状態に陥る可能性が高い。失敗や間違いを含む”冒険”をする機会が奪われないことは、人が主体的・自律的に生きる上で必須。

 

★変化に必要な「厳しさ」とは

厳しさの本来的な意味は「妥協をしない」「要求水準が高い」ことで、これらは相手にネガティブな感情を与えなくても可能。厳しくする=叱る(苦しみを与える)、ではない。周囲の人間ができることは、本人が「やりたい」「欲しい」と感じる目標を見つけるサポートをすること。自分で決めた目標へ向かう途中の苦しみを主体的に乗り越える時、人は成長する。この場合の苦しみは糧となる。本人が冒険を成功させるための武器を与え、道筋を示せば、叱ることをせずとも厳しい指導は可能。←このポジティブなやり方にどことなく頼りなさを感じるのは、ネガティブ感情を利用する場合に比べて即効性がないから。ポジティブ感情をベースにした学習メカニズムの本質は、報酬につながる行動の発生確率が上がっていくところにある。その場その場で実感できる変化ではないため、役に立っていると感じづらい(感じづらいだけで、本当に成長を促すのはポジティブ感情)。

 

★現代は処罰感情が暴走しがち

処罰欲求は本来、自分たちのコミュニティを守るためにある本能的な感情機能だと考えられる。科学技術が発展する以前、人は声が直接届く範囲の小さなコミュニティで生活していた。そのためもしも誰かの処罰感情が暴走しても、そこには必ず周囲の目があった。処罰感情の充足は「被害者」だけに許され、「傍観者」については抑制されたかもしれない。しかしインターネットやSNSの発達した現代、物理的な距離を超えて処罰感情を充足させることが可能になった。一度「叩いていい人」と認定されると、瞬時に数千数万の傍観者からバッシングを受ける時代になった。匿名では人格否定や誹謗中傷も起こり、標的になった人が自死に追い込まれるような事例もある。

 

★処罰感情と向き合う

誰かに罰を与えたい欲求は、社会的な存在である人間が生来もつ欲求の一つ。必要性や必然性があるから備わっている。だからこそ、暴走させずに適切に満たす必要がある。個人的な欲求なのに「相手のため」「みんなのため」とすり替わっていないか?個人的な「こうあるべき」が本当に適切か?常に自問自答すること。特に自分が「普通は」「常識では」「当たり前だろ」と語り出したら要注意。叱る側の願望でしかないことが、叱られる側の問題にすり替わっている場合が多い。叱る側は権力をもっているからこそ、自分の経験や一般論だけであるべき姿を決めつけてはならない。相手の理想や関心、情報処理の仕方を尊重し、相手に合う方法を考え続けることも大事。

 

読書メモ『<叱る依存>がとまらない』p.61~

★叱ると人は気持ちよくなる

誰かを叱ると、相手は大抵すぐ謝ったり、言われた通りに行動を変えたりする。自分がはたらきかけることで相手の望ましい行動が生まれたという体験は、叱る側に充足感を与える。叱る以外でも、「自分の行為には影響力がある」「自分が行動すると良いことが起きる」といった感覚は自己効力感と呼ばれ、人間にとって報酬となる。

 

相手の望ましい姿が「即座に」現れることに加え、叱るという行動は処罰感情を満たすため、脳内の報酬系回路を活性化させる。叱る=快感が伴う行為であり、「相手が悪い」と思っている限り叱りたい欲求は膨らみ続ける。※いつの時代も勧善懲悪の物語は人気で、ラストで悪人が懲らしめられて一件落着する。これは処罰感情の充足が人に与える快感をうまく利用したエンタメといえる。犯罪者の公開処刑も同様。

 

★叱ることがエスカレートする背景

人には、同じ刺激が繰り返されると「馴化」と呼ばれる変化が起きる。これは特定の刺激が長時間繰り返されることでその刺激に対して鈍感になり、反応が徐々に薄くなっていく現象のこと。「叱られる」という体験においてもこれは起こり、叱られることに慣れると、人は今までのようにすぐに謝ったり行動を改めたりしなくなる。叱る側にとっては「ご褒美が得られなくなった!」という状態で、より強く激しい言葉を使って相手にネガティブ感情を与え、思い通りに動かそうとする。これまでと違う強い刺激に相手が反応し、行動を変える姿を見て「やっぱり厳しく叱らないとダメだな」などと思う。→叱ることが常態化すると、叱る人がより過激な行動をとるようになるというメカニズムが存在している。

 

★強い刺激による副反応

人はあまりにも強烈な刺激を受けると、その後とても弱い刺激にも敏感に反応するようになる(鋭敏化)。例えば大地震の直後は、今まで気づかなかったようなほんの小さな揺れも敏感に感じ取って恐ろしく思ったりする。「叱る」においては、一度強く叱責し相手が泣き出してしまうような状況を生み出すと、叱られた側は次回から小言程度でも過敏に反応するようになったりする。強いネガティブ感情体験は記憶に残りやすく、また消えにくい。そして強烈な苦痛は馴化が起こりにくいため、ひどく叱られた側は叱られていない時も常に鮮烈な苦痛の記憶と共に過ごすことになる。

 

★そもそも依存症とは?

脳科学辞典によると依存症とは「快情動を生じる物質の摂取や行為などを繰り返し行った結果、これを求める耐え難い欲求が生じ、これらを追い求め、これらがないと不快な症状を生じてしまう状態」。かつて依存症は「意志が弱い」などの性格の問題にされがちだったが、近年では条件さえ揃えばどんな人でもなりうるリスクのある心の病の一つと考えられている。

 

自己治療仮説によれば、人は無意識のうちに自分自身の苦痛を和らげてくれるものに依存するという。実は危険薬物を一回経験しただけで依存症になる人はあまりいない。「前提として何らかの苦痛を抱えている場合」、依存症は起きやすくなる。落ち込みや空しさを抱えている人が覚せい剤に依存したり、不安や緊張に悩んでいる人がアルコール依存に陥ったりする。依存症のリスクを高めるのは「受け入れがたい現実」で、その現実を一時的であっても忘れさせてくれるような快感や体験に、人は依存する。

 

★叱る依存は、叱る側に「うまくいかない現実」がまずある

叱らずにいられない、は苦痛から解放される快を得る行為という意味で、依存症の発生メカニズムに似ている。叱る側がそもそも自己評価が低かったり、他者への劣等感、あるいは慢性的な疲労などの「受け入れがたい現実」を抱えている場合がある。そこへ自分より立場の弱い人が、自分的には間違っている姿で現れる。「叱る」という行為で、目の前の現実があるべき形に変わる。これは叱る側に大きな充足感をもたらし、脳内ではドーパミンが大量に放出される。抱えていた苦痛から一時的に解放され、ほっとするような体験となる。